2024波乱万丈の半世紀

家族が離れて生活する少年時代

 昭和35年7月、兼造の次男として生まれた敏英は、幼少期から活発で茶目っ気たっぷりな子供に育っていた。
 しかし、敏英が小学5年生の昭和47年、父兼造の衆議員初当選を境に家族の状況は一変する。父母と妹は東京暮らし、兄と敏英は実家(本荘)に残り、家族は離れて暮らす事になるのだった。
 当時、実家から50m程の場所に祖母が営む旅館があったので、食事や身の回りの事に不安はなかった。明治生まれの祖母は進歩的で、敏英にとって人生の師でもあった。旅館に泊まる様々な職業の人達と毎日触れ合っていた祖母は、小学生の敏英に「職業に貴賤(上下の差別)なしで色々な人が自分の仕事を果たすことで社会は成り立っている。
 もし人の役に立ちたいなら、それぞれの人に対して優しさを持つこと。
 その優しさとは自分に厳しくなると言う事だ。」と、そんな話をよくする祖母だった。

本荘南中学校野球部時代

 兄との生活も二年が過ぎ中学校に入学。
 野球が好きだった敏英は迷わず野球部に入部した。入学当初は父親が国会議員で目立つ存在であったため、からかわれたりすることもあったが、全て自分で解決すしかなかった。問題を自分で解決する術は、そういう経験から養われた。
 心も体も成長し、逞しくなった彼を同じ野球部の森川さんは、「敏英君は外野の控え選手だったが、ベンチからの声が一番大きく、皆が奮い立ち優勝の原動力となった。」と回顧する。

日大付属鶴ヶ丘高校(東京)で秋田弁大流行

2017年 日大付属鶴ヶ丘高校 講演

 敏英が高校に進むとき、三つ上の兄は東京の大学に進学が決まっていた。この時、敏英を一人で暮らさせるのは可哀想と、兄と一緒に上京、日大付属鶴ヶ丘高校に入学させた。ところが、家族が揃ったのも束の間、この年の総選挙で父が落選したため両親と妹は秋田に戻り、逆に兄弟二人の生活は東京で始まったのである。
 鶴ヶ丘高校へ地方からの入学生は珍しく、青森一人と秋田一人だけだった。ある日、この二人の会話を聞いていた東京出身の同級生から、「二人の会話は何を話しているかわからない。」指摘され、密かにショックを受けたが、それでも二人は秋田弁、青森弁を学校中のみんなに教え、大流行となった。
 平成29年には母校生徒1500人を前に自身の経験から「挫折しても諦めない心」などについて講演を行った。

日大商学部から飛島建設㈱へ就職

 高校卒業後は日大商学部へ入学し、バトミントンに夢中になった。
 日大卒業後、飛島建設に6年間勤務(内、1年は安田信託銀行出向)。
 安田信託銀行不動産部出向時代の同僚、大塚さんによると「仕事は早く、お客様からも好かれていた。それに勤務終了後の酒付き合いは、欠かした事がない。それでいて、不動産部で必要な宅地建物取引士の資格を一発取得したのには驚いた。」と言う。

 昭和62年、妻つぐみと結婚。翌年に長男、翌々年に長女が誕生する。
 この頃の飛島建設での敏英は、一つのプロジェクトを任せられ、仕事にやりがいを感じていた頃だった。
 
一方、父兼造は要職に就くようになり、彼に秘書就任を要請した。
 敏英は悩んだ末、飛島建設に別れを告げ、政界に足を踏み入れる決心をしたのである。

政務秘書官時代は緊張の連続だった

郵政大臣秘書時代
 ・ 日米通信交渉(周波数割当)
運輸大臣政務秘書官時代
 ・ 湾岸戦争の避難民移送
 ・ こじれた成田空港問題
 ・ 信楽高原鉄道事故
 ・ JR民営化による株式上場と労組問題
内閣官房長官政務秘書官時代
 ・ 沖縄ヘリポート建設反対運動
 ・ 竹島をめぐる日韓漁業交渉
 ・ 核廃棄物船の青森県入港問題
 ・ 金融機関の破綻
 ・大手企業の倒産
 ・ アジア通貨危機の発生
 ・ 選挙制度改革(中選挙区➡小選挙区)
 等々、国の根幹を揺るがす難問が次からへと訪れ、緊張の秘書16年間であった。(村岡敏英著「STAFF」より)

小選挙区制度での無所属出馬

 平成15年、第43回総選挙で村岡兼造は落選し、その場で引退を表明した。
 その後、支持者の強力な要請があり、敏英は次期総選挙に、立候補の決意を固める。
 記者会見では「いばらの道でも国政を目指す」と報道各社の前で宣言したが、小選挙区制度下での無所属の立候補は、大変厳しく初めての総選挙は惜敗。次の45回総選挙は民主党圧勝による政権奪取、苦杯を舐める。
 これら幾多の困難を乗り越え、第46回・47回総選挙は連続当選となる。

衆議院予算委員会での突破力・・・三ツ星議員に選出、田原会長より表彰

 衆参議員722人中、6人の三ツ星議員に村岡代議士を選出。
 質問力など総合的に評価され、政治評論家田原総一朗会長より表彰される。
 村岡敏英は平成24年初当選以来、約5年で国会質問は実に93回に及んだ。
 予算委員会は、誰でも質問に立てる訳ではなく、国会対策委員長や理事に指名されなければならない。尚且つ、質問の分野に精通している事、質問力の高さ、突破力などが求められる。
 平成26年2月3日の予算委員会で村岡代議士は安倍首相に秋田県南部豪雪に対する緊急支援を要請。
 首相は「直ちに災害対策を検討する。」と答弁し、異例のスピードで対策が講じられた。
 16年の秘書官の経験は質問力の高さに繋がり、着実に経験と実績を積み重ねて行く事になった。

全県選挙に連続挑戦・・・そして再び

 令和3年4月知事選(193,538票)、令和4年7月参議員選(162,889票)と連続して全県選挙に挑戦し、大量得票を得るも敗戦した。
 「結果は全て自分の責任。しかし、敗戦から得たものも沢山ある。全てを糧に秋田のために政治活動を続ける。」と国民民主党と共に再び歩き始めたのである。